COLUMN

■■■■今までのコラム■■■■

 希望の方へ。
〜北風を受けとめながら笑顔で語る人・高橋博之さん〜

2016.01.19

 

 2015年11月13日のはみだし塾は、ゲストにあの『東北食べる通信』で知られる、日本食べる通信リーグ代表の高橋博之さんをお招きしました。

 実は、このコラムを書いているのは、年が明けて1月も半ば。(サボってばかりで申しわけありません...。)私事で恐縮ですが、その間に(高橋さんの講演から2週間ほどして)94歳になる母を見送るという出来事がありました。そして、母の葬儀を通して、ふとこんな言葉が頭をよぎりました。
 食べることは、死ぬことである。
 人は、生きるために食べるけれど、何をどんな風に食べるか。その食べ物とどう出会っていくか。それはやがて訪れる死と、どう向き合っていくかに他ならないのではないか。死が極限までリアルでなくなった時代には、それと同じように食べることのリアリティーも失われているのかもしれない。...そんな思い。

 高橋さんの講演タイトルは、ズバリ「リアリティーに飢える」でした。
 食べものの背景にある生産者の思いやストーリーを、都市に生きる人の「買う」と「食べる」にどうつなげるか。食べることにリアリティーを呼び戻すか。それこそ、高橋さんが「東北食べる通信」でやろうとしたことだと思います。
 しかし、高橋さんの話には、食べることの中に、幾度となく死にまつわる話が出てきました。死を考えずに生きる人間への警鐘。相も変わらぬ自殺者の多さ。終末医療の問題。漁師と農家の世界の圧倒的な高齢化と後継者不足(直接死とは関係ないけれど)。生産現場から切り離されて流通する食品は、まるで死骸だという話。

 幸い母は、終末医療にかかる一歩手前で、病院を出て娘に看取られ、家族に十分な別れをして、静かな最期を迎えることができました。しかし、葬儀会社が段取り良く仕切る葬式の最後で流れた曲は、なんと「戦場のメリークリスマス」! そして、手配されたバスに乗り込んで行った先に待っていたのは、超現代的な建物の火葬場だったのです。母は、煙ひとつ出さない焼場で、あっという間に灰になりました。人生の最後に待っているのは、なんとリアリティーのない死なのか。そんな感慨に耽ったのでした。
 よりよく生きるために、穏やかに、自然に過度に抗うことなく死を受け入れるために、食べることにもっと真摯に向き合わなければ。ぼくの中で母の死と高橋さんの話は、不思議とつながりをもってしまったのです。

 大型スーパーやコンビニが日本の隅々まで行き渡り、外食産業が隆盛を極め、広告と食品産業の蜜月が続く時代。ぼくらは「背景と切り離された食べ物」を手にするしかない。経済の循環の中に無自覚にいる限り。高橋さんが『食べる通信』で取り組んでいることは、大げさかもしれませんが、歴史的な大転換だと思うのです。生産者から食品をダイレクトに買うだけでなく、その物語(モノの背景にある価値)も一緒に受け取る。流通も広告も、モノそれ自体の中に取り込もうとする、たいへん意味のある実験だと感じました。

 高橋さんの話を聞いていると、こんな人の姿を思い浮かべます。冷たい北風を背中に受けて倒れそうになりながらも、顔だけはしっかりお日さまに向けて笑顔を絶やさない人。はみだし塾史上初の(!)、パワポなし、着席なし。まるで辻説法のように、絶望を語り、その端から希望を語る。限界集落という言葉は嫌いだけれど、確かにあらゆることが「限界」と言うしかないこの時代に、彼は根拠のある希望を語っているのだと思う2時間でした。(塾長・今村直樹)